てっちゃんの法律学・ミニ概論

法律に興味の有る人でしたら、植松正先生(一橋大学名誉教授)の名前はご存知と思います。今、このホームページを編集するにあたり、書棚から33年前に買った懐かしい書物を引っ張り出してきました。大蔵(財務)省印刷局出版・植松正著「刑法教室2・各論」です。先生は日本を代表する刑法学者であるにもかかわらず、貧困の家庭に育ち夜学に刻苦奮励されまして、苦難の中で努力されたその生い立ちのせいでしょうか、行間ににじみ出る温かいお人柄が難解な法律学に生きた人間学としての血を通わせる名著となっています。手許の「刑法教室2・各論」の表紙の裏には、当時の中央大学法学部法律学科の月曜日の授業日程が書いてありました。10:20〜11:50刑法1部(331号教室)、桜木先生、12:50〜2:20商法1部(551号教室)、崎田先生、2:30〜4:00民放1部(324号教室)、山田先生、4:05〜5:25刑法2部(331号教室)、沢登先生、19:05〜20:35行政法1部、山本先生(151号教室)。当時は教職過程は簡単にとれました。司法書士なんてのも、そんなにむつかしくなかった・・。青春は二度と帰ってきませんね。今は無き御茶ノ水校舎の時代の話です。「刑法教室1・総論」「続・刑法エッセイ」は当会会員某氏のご協力によりまして入手することができました。ご好意に対し厚く御礼申し上げるしだいです。裁判官になりたくて司法試験に3回挑戦しただけの浅学菲才の身ではありますが、インターネットという文明の利器に遭遇し、往時の満たされなかった思い出を凝縮して執筆にあたります。刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、憲法、以上5科目について教養レベルでの講座を開いてみたいと思います。それは読者の皆さんとともに私自身が法学のなんたるかを復習することでもあります。ちなみに私の法律学の師匠は、顧問弁護士をしていただいてた東京の会社時代を含め、数十年の長い親交をいただき、2013年初頭も賀状をちょうだいしている大谷庸二先生(第二東京弁護士会所属、中央大学先輩、島根出身)と谷戸直久先生(大阪弁護士会所属、島根県掛合中学後輩)です。
完璧な法というのは人類の経験則上から考えても期待できないから、法解釈学があり、法社会学において基本的人権に検証を加えなくてはならない。 (道路交通法の60キロ制限、30キロ制限などは、あまり交通事情に即しているとは思えない)。     
 はからずも今、裁判員制度の実施により全国民が刑事裁判と否応無く向き合わなくてはならない事態となりました。
趣味の延長ですが、法曹志望だった者として、今一度「学問」してみたいわけです。「出版分野」の一つとして、法を論じていきます。
刑事法対象分野に思える行為であっても、民事法の視点で、当初から民事契約が成立していたのならそれはあくまで民事案件です。
法律を守る遵法精神は民主社会の基本です。合法にして、適法
にして、市民社会と行政要望の接点、着地点をどこにおくべきか。
消費税増税だって、決まってしまえば「法律」なのですからブツブツ言ってもしかたない。法を守らせるのが「国家権力」の仕事なのです。
だから、「法の中で」どのように暮らしていくかを考えるしかない。それを「法学思考」と言います。間違っていれば、必ず「警告」「行政指導」があります。
違法性の認識が無いものは罪を問われません。「知らない」者は仕方が無い。それが「合法、適法」の世界です。例外としては「未必の故意」があります。
公平、公正な市民社会の安寧を願って、さあ、皆さんとともに「法学旅行」に出かけることにしましょう。
法治社会にあっては、自らの権利と主義主張を守ってくれるのは「法律知識」でしかありません。まず「法律」とは何かを、学ぶべきなのです。
中央大学名誉教授下村康正先生、同じく橋本公旦先生、最高裁判所判事団藤重光先生、かつて私が薫陶を受けました諸先生の理論をもとに通説に沿った平易な教養レベルでの法学解説を試みていきます。

当サイトでは、一般市民向けの総合教養カルチャー講座の充実をめざしております。株式実戦講座では、有料メルマガでの実戦コメント、株式実戦ビデオを購入しての実戦研究、電話講義(電話代等実費負担)、ネットラジオでの市況解説などを企画してきました。
投資家の皆さんが利益を出す為の万全な支援体制をとっております。投資結果の報酬は受け取りません。
ただ、当会のメイン事業は、主催者松浦哲雄本人の著作活動の推進にありまして、現在もなお5年、10年、遠大な計画の下に執筆活動を継続し、
販売用の講演ツール製作
に意欲を燃やし、日々その中身に創意研究を重ねています。
皆様からのご支援体制として、近々に発売予定の松浦哲雄著作物の予約先行販売を企画しています。出版社事業としても文芸出版、投資ノウハウ出版、経済講演出版、シンガーソングライターとしての「音楽出版」写真家としてのポートレート出版等々、現代の天才レオナルド・ダ・ビンチ(音楽家、文筆家、法律家、柔道家、写真家、相場師)として多角的に大きなマルチ事業展開を企画していますので、皆様へご協力をお願いすることもあろうかと思います。投資結果との相当因果関係は存在しませんので、あくまで個人の自由意思ということです。

一般教養講座としては一流大学法学部卒業レベルでの法律学教養講座民事法(公序良俗規範、要件事実、民事調停、離婚の実務、債務整理、口頭弁論と準備書面、挙証責任、合意管轄)、
刑事法(告訴、誣告罪での逆襲とは、検察と警察の役割、受理の要件、被告人の権利、検面調書至上主義、罪刑法定主義、検察審査会、
捜査の可視化、拘留、黙秘権、令状主義、特別公務員暴行凌虐罪、準抗告、付審判、憲法38条2項、刑訴法319条1項)、
憲法(基本的人権、いわゆる社会権とは、平和主義と憲法改正、9条と96条)、
以上3科目についての講義ビデオの製作をします。学問的には、いわゆる「通説」を基本に論じていく方針です。
法律知識を身近なものとしましょう。
法学講義についてはビデオ製作費実費のみの徴収とします。講演費は別途。


2010.9.24配信
「検察一本主義」
法律を多少でも勉強された方ならよくご存知の言葉です。
最高検、高検、地検、区検、上から下までの寸分の揺るぎのない<上意下達>、指揮系統のことを言うわけでして、
個々の検事の「私見」が入り込む余地はありません。基本的には、全国の警察組織も<上意下達>の階級社会です。
疑わしきは罰せず、捜査に恣意があってはならない、刑事捜査には幾つかのハードルがあります。
前から思うことですが、捜査に着手するかしないか、やるかやらないか、あくまで国民主権の法治国家であるわけですから、
その規準線は「反社会的」であるかどうかを目安にすべきだろうと考える次第です。
悪質度の高いものから処断すべきだということです。
あらゆる法律は、最高裁判所の違憲立法審査権の判断に従います。

<付記>
余談ですが、知人だった東京高裁刑事7部の判事さんが武蔵野市だったかなあ・・「水道関連」の判決を、あれが自分の裁判官人生の代表的な判決文だと
広大な執務室から皇居を見下ろしながらしみじみ話してくれたことがあります。皇居を一望する今の状況が最高の気分なのだと・・。
元は「裁判官志望」だった私でして、尊敬とうらやましい思いで合同庁舎の裁判長室でお話を聞いたことがあります。
一度でいいから、最高裁の大法廷で15人の裁判官の前で意見陳述をしてみたいものですね(子供の頃からの憧れ、夢なのです)。

また、元、神奈川県警本部長がかつて私の親族であった関係で、警察行政の大変さもよく承知しております。
2013初夏の現在は、某県警管轄下のNPO機関でおよそ4年近く犯罪被害者支援員として市民の皆様の相談の窓口となっています。
少しでも、民主警察の存在が市民の皆様の身近なものとなるように微力ながら尽力したいと考えております。もう、かなりの古参の担当者となりました。
2013年4月発売の私の著書に、そんな私の思いの一端も書きました。

刑事法編
2006年時点での司法政策の動きをかいつまんで説明します。
、法科大学院の初めての修了者が新司法試験を受験することになる。
、司法支援センターの発足(法務省管轄)。
、労働審判制度開始。
、被疑者段階での国選弁護人制度の開始。本年10月より。

<新制度での問題点、法務省の新方針>
、裁判員制度導入で審理迅速化が求められる
(一般市民を長期間、裁判審理にしばりつけるわけにいかない)
、容疑者、未決拘禁者(被告)と弁護士との接見機会を拡充しないと対応できない
、弁護人と、面会・手紙以外の方法で意思疎通を図れる必要性が発生
、容疑者、被告が弁護人と電話で連絡をとる「電話接見」を認める方針が固まった

 2006通常国会で改正刑事施設刑事被告人収容法(旧監獄法)が成立
(未決拘禁者の処遇を規定。拘置所や留置場内の設備を電話接見に対応)
「未決拘禁者」・・・判決がまだ確定していないが、逃亡や証拠隠滅の恐れがあるとして身柄を
拘束された状態の容疑者や被告。拘置所や警察署内の留置場に収容される。受刑者と異なるのは
服装は原則自由。
検察一本主義、検察審査会、警察調書、検察調書等については稿を改めて後述するが、
「起訴」が決まると刑事裁判では99%の確率で「有罪」となるのが現状であり、専門家偏重の故に冤罪、誤審も
時として避けられなかったという側面もある。
「起訴猶予」「不起訴」「嫌疑無し」の検察判断が事実上の判決だったとも言えなくは無い。
裁判員制度の発足は、間違いなく現状を改善し、法律を市民の身近なものとする効果が期待される。

法律がなければ刑罰はない。法律がなければ犯罪はない。罪刑法定主義を定義する言葉である。昨今のM&A、株式買収もこの言葉が背景にある。つまり、道徳的観念からどうかとおもわれる所業であっても、「自由な経済行為」の名のもとに、極論すればだが法律に規定する逐一条文に抵触しない限りにおいて、罰則規定がないものは(公共の福祉に反しない限りは)何をやってもいいという論理に帰結するのが法的思考なのである。さらに法律適用にあたって社会的要請は大きな要素であるが、法の実態は
解釈法学である。すなわち、拡大解釈、縮小解釈、類推解釈等の裁判所における条文適用は法治社会の根幹をなすものであって、この解釈法学については稿をあらためて後段にて講述する。
人権を離れた法学はないが、「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告の利益」、これも近代刑法、近代刑事訴訟法の大前提理論である。
1801年、フォイエルバッハが初めて罪刑法定主義という観念をラテン語で著した。
ローマ法でも、共和政末期には、罪刑の法定が行われていた。
全体主義国家を除いては、罪刑法定主義は近代刑法の根本原則として諸国であまねく認められているのである。1948年、世界人権宣言のなかでも宣言されている。
ちなみに、道徳形而上学の観点から人間の理性を哲学的に反省し、犯罪および刑罰の本質に
深い洞察を加えたのは、カントである。
日本放送協会、NHKの料金不払いが社会問題化しているが、法律で規定されてるとはいえ、罰則がないので刑事法にはなじまない。つまり、債権、債務の民事法体系において当該紛議は処断されるのが相当であると思料するものである。

構成要件
刑事学的な当罰行為の類型。法的な可罰行為の定型。有責行為類型。法律効果に対する前提要件。
違法、有責な行為の法的定型が構成要件である。構成要件を充足することが、犯罪成立の第一の要件である。
行為構成要件というのは犯罪成立要件の総体であって、責任要件までをも含むと解するのが通説である。
「構成要件理論は総論から各論への架橋である」(独、メツゲル)
定型的、抽象的に構成要件に該当する行為でないかぎり、それが違法、有責であるかどうかを問題とする余地はない(前述、罪刑法定主義)。保護法益の侵害の態様は原則定型化されているのであって、むやみな拡大解釈、類推解釈は司法権の乱用となる。構成要件該当と構成要件の充足とは区別しなければならない(小野博士)。
このことは未遂罪の成立を妨げるものではない。さらに付記すれば、適用にあたっては社会的要請が加味されるべきと解するのが私、松浦哲雄の立場である。表示犯(ケルン)として類型される構成要件(思想の表示)に侮辱罪、脅迫罪などがあるが、すべての構成要件は外部的に現れた行為、すなわち外部的、客観的な身体の動静を要素とする。
法益の重要性の故に「危険犯」という類型が容認される。放火罪、殺人罪がそうである。主観的構成要件要素にとどまるものとしては通貨偽造罪がある(行使の事実がなくても行使の目的だけで足りる)。挙証責任の困難を救済するために危険犯に類したものとしているのに、名誉毀損罪や信用毀損罪がある(社会的評価または信用の現実の低下を要せず、低下のおそれがある状態の発生で足りる)。

法律の裏づけ(構成要件)の無い訴えを警察へ起こした場合は、逆に訴えた相手から「誣告の罪」によって告訴される
ことがあり面倒なことになります。警察が簡単に告訴を「受理」しないのはそのような背景があります。それぞれに人権があるからです。

犯罪類型は大別して二つに分かれます。
1、いわゆる特別法は、市町村の条例も含めて多くありますが、刑法上の罪とは違い
  行政上の取締規定に違反する行為を犯罪として規定し「行政犯」と呼称します。
2、刑法各本条の罪および近似する罪を総称して「刑事犯」と呼称します。

刑事犯は人類自然の道徳感情から非難を浴びる性格のものであるところから「自然犯」
とも呼ばれます。
行政犯罰則の制定を待ってはじめて非難される性格のものであるところから「法定犯」
とも呼ばれます。

行政上の取締規定については、過失犯も罰するかどうかで論争があった。
けっきょく、やはり一般原則によるべきものとの考えが大勢を占め、
刑法第三八条第一項本文「罪を犯す意なき行為は之を罰せず」に従い、
刑法の原則は取り締まり法規にも及ぶことが判例でも確認された。
(大正七年五月一七日、大審院判決)

大審院とは現在の最高裁判所のことであり、判例は踏襲される。


刑法第百九十九条、殺人罪について話します。
刑法第二百条「尊属殺」規定を復活すべきだということを私はずっと主張してきましたが、もちろん
今も変わりませんし私のメルマガが存在するかぎり訴え続けていきます。
尊属殺はさておいて、一般殺、普通殺として第百九十九条は「人を殺したる者は死刑又は無期若しくは三年以上の
懲役に処す」と規定します。
この条文の特徴としては、とにかく刑の幅が広い。
量刑の範囲をひろげると、三年の最低刑も減軽により半分の一年六月にできる場合もある。
(第六八条第三号)
またすべての場合につき酌量減軽を施す道も開かれている。
(第六六条)
事情によっては最大限、一年半をさらに半減して懲役九月にすることが可能である。第六七条他。
そのうえ、刑の執行を猶予することもできる。第二五条。
量刑の範囲が広いということは、裁判官と裁判員の良識が深く問われることになる。
事件の客観的外部事情、具体的事件の特質について大岡越前守になることが、皆さん方裁判員に
求められる。

<民事裁判の実務>
「第一審」に不服の場合は、2週間以内に「控訴」をするのですが、裁判費用は5割増しになります。
控訴審は「本庁」で裁判官3人制の合議でやります。「支部」ではやりません。
裁判に勝った場合、動産、不動産の差し押さえを「執行官室」に申し立てます。
競売は日時を変えて3回行われます。
売却金額が2500円に満たない場合は「不成立」となります。
執行費用は***です(あまり詳しく書くとキリがない)。
訴額140万円までが簡易裁判所の管轄です。参考になりました?
今、思うのはですねえ、「裁判員裁判」を民事裁判にも拡充してはどうかなということです。
当事者が希望する場合だけでもいいんじゃないでしょうか。
明確な証拠は無いんだけれど、客観的に検証して「賠償額ゼロ」では明白に「不合理」だという場合が民事事件にはあります。
今後の民事訴訟法の検討課題として私は全国に問題提起したい。
被害が発生している点に双方争いはない。しかし客観証拠が無いからでは法の盲点と言うべきでしょう。

改正検察審査会法(2009.5施行)

審査会が同じ事件で起訴すべきだという議決を2回だすと、裁判所の指定した弁護士が検察官にかわり必ず起訴することになった。
審査会は、告訴、告発人や犯罪被害者への対応など、検察の組織、運営について改善を求める建議、勧告も地検検事正に出せる。検事正は改善措置の内容などを審査会に通知する義務が新たに盛り込まれた。検察の説明責任が課題。

民事法編
民事法典は民法、民事訴訟法、民事執行法の三つに分かれます。商法は民法に対しての特別法と位置づけられます。
裁判の手続きを定めたものが民事訴訟法です。
訴訟の前段階として民事調停があります。調停が成立すると、裁判長による審判が下されます。
審判は判決と同じ意味を持ちます。すなわち、債務名義(執行力ある正本)を獲得することになります。
当事者双方の主張に齟齬があり調停が不調となると、ただちに本訴訟に移行することになり、次回期日を決定し、
当事者双方に呼び出し状が送付されます。
本訴訟の法廷に於いては、事前に準備書面の提出が求められます。
準備書面とは口頭弁論期日までに弁論の内容を相手方に予告する書面で、攻撃防御方法と相手方の攻撃防御方法
に対する応答内容を記載したものである。
準備書面の記載形式は法定されている。民事訴訟法第244条、民事訴訟規則6条。
実際の裁判では、開廷直前に提出してくるケースがほとんどであり、数分間で双方の弁護士が
あわただしく書面に目を通す場面が日常的である。
提出の無い場合には、不利な扱いを受けることがあると思料されます。原告は訴額による法定の印紙税を納付します。
法廷の口頭弁論は本人訴訟、代理人による訴訟、いづれも差異はありません。
口頭弁論期日に出廷しないと、多くの場合は全面敗訴することになります。
実際の訴訟では、数多くの訴訟が順番に繰り広げられていくので、一回で決着がつくということはほとんどありません。
第二回、第三回と呼び出しがあり、そのつど口頭弁論で裁判官は争点、論点を整理していきます。
どこの裁判所で争うかは、事前に契約時に取り決めておいた裁判所が管轄となります。
これを合意管轄と言います。
弁護士費用は被告原告それぞれが負担します。弁護士報酬は着手金と成功報酬金とをいいます。
日当は対価としての報酬ではなく実費ですから別途に支払います。
簡裁段階では弁護士資格のないものでも裁判所の許可を得て弁護人を務めることが出来ます。
それを特別弁護人と呼びます。特別弁護人の日当は交通費食費等込みで1万円が相場です。
弁護士費用は以前は日弁連の規定で20万円が着手金と定められていましたが、現在は撤廃されていて、
弁護士費用の高額化を招いています。
全国22000人の弁護士の中で元裁判官をヤメ判、元検察官をヤメ検と俗に呼びますが、それぞれ500〜800名
に過ぎず依頼者間で人気となってはいるようですね。
ちなみにテレビ報道によりますと、粉飾決算・証券取引法違反がとわれているライブドア事件、堀江社長の
弁護人はヤメ検で着手金2千万円、日当は時給5万円で1日25万円、事件後の成功報酬金は
天文学的・・・とのことですが、これはあくまでマスコミの推測です。
裁判の結審までは長い年月がかかるため、通常の裁判では当事者双方に裁判長から和解勧告があり、
現実の事件の7割近くが和解で決着しています。和解調書は判決と同じ意味を持ちます。
現在、小額訴訟を迅速に進める体制にはありますが、被告が判決を不服とする場合にはただちに控訴することが
できます。これを控訴審と呼び、ふたたび上級裁判所による審理に移行します。
刑事、民事共通の日本の裁判制度に「三審制」があります。
被告は裁判の結果に不服であるときに、控訴、上告、それぞれ裁判を受け直す権利があるのです。
簡易裁判所が第一審の場合、控訴審は地方裁判所、上告審は高等裁判所です。
地方裁判所が第一審の場合、控訴審は高等裁判所、上告審は最高裁判所です。
控訴審に於いては事実関係の確認が審理の中心となりますので事実審とも呼ばれます。

法律用語・・「得(う)べかりし利益」・・得ることが出来たはずの利益

民事訴訟法

債権、債務の関係にあるものを民事紛争と規定し、刑事事件と区別する。民事不介入の原則。
紛争の
自治的解決の典型的な方式は和解である。
「私法上の和解」
まったくの私的な契約としてなされる場合、公序良俗に反しない限りにおいて効力は認められる。
「裁判上の和解」
(訴訟上の和解、起訴前の和解)
訴訟のどの段階であっても受命、受託裁判官や民間人たる司法委員の協力のもと、
和解は成立し得る。136条、358条ノ4
成立した和解を調書に記載して裁判長が審判を下すことを決定と称し、調書はその時点をもって
執行力ある債務名義正本の性格を有することになる。国家の公証行為。
後始末として訴訟費用の処理の問題は残る。97条、103条

<立法行為>
三権分立の日本国憲法で、「法律を作る」権原は立法府たる国会の専権事項である。
ただし、出来上がった法案が、現実に社会に適用されるのを見て「あれはこうすればよかった」「これは、不十分だった」と、
内心で反省したり、問題点に初めて気付く国会議員なり法務省担当官もけっして少なくはないはずである。
だが「悪法も法である」のであって、いったん発進した「立法」は立ち止まることはない。
具体例として、世上で悪評高いのは「個人情報保護法」がある。今現在、様々な「弊害」が指摘されている。
だがしかし、取り締まりの現場ではそのまま「法は機能している」し、今後も同様だ。
現実の司法行政の場での「修正」としては、「裁量権」「情状酌量権」が機能するだけである。
一般市民が「立法行為」に関与するには唯一の方法がある。
それは最高裁判所の「違憲立法審査権」だ。法律には、「成文法」としての「法条」と、裁判の積み重ねの中で形成される
「判例法」とがある。成立が古い法律ほど、裁判の現場では実績を積み重ねた「判例」を「法」として重視する傾向が強い。
だから、「裁判員裁判」が定着した刑事法にあっては特に、従来の条文解釈からは考えられなかった「市民感覚」に沿う
斬新な判決も垣間見られるようになった。
国民が「不条理だ」「理不尽だ」と常識的に客観的に判断し得る係争案件に関しては、国民は積極的に
「訴え」を最高裁に提起すべきである。
以上のことから、「私案」として国家に提言したいのは1年とか一定期間経過後に「成立法案の見直し、点検作業」を
すべての法律に義務付けるということを「憲法改正」要綱に盛り込むことである。
「冤罪防止」の観点からも法務当局に一考を促したい。
道路交通法の「60キロ制限」のように細かく「厳密に」適用すれば社会の物流に支障をきたし国民経済を圧迫する法令がある。
違憲立法ではないけれども、国家経済自体に甚大な損害を与えるのであって、
このことは「法は万能ではない」ことの「証明」である。監禁の人権侵害、不当逮捕、脅迫まがいの威圧行為、違法な見込み捜査、証拠捏造、毎年のように捜査機関の不祥事が社会問題として報道される。元警視監だった私の身内も心を痛めていた。
以上のことから、捜査現場においても「見識」「良識」「常識」「道徳観」「柔軟な臨機応変の発想」は重要な公務資質である。
もうひとつの実体上、かつ事実上の「立法機関」(判例法)として、最高裁判所の機能を広く国民に周知徹底すべきだと思う。


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2009.5.1 JR荒川沖駅連続無差別殺傷事件に想う(てっちゃんの株式教室、論壇)

本日、午前10時より水戸地裁において、昨年3月に発生した「JR荒川沖駅無差別9人殺傷事件」の
初公判が開かれます。
当時、被告の若者は刃物を振り回して奇声を上げながらJR荒川沖駅構内を走り抜けました。
そうです、あの「秋葉原連続無差別殺人事件」とまったく同じパターンです。
被告は荒川沖駅での無差別殺傷の4日前には自分の妹を殺害しようと計画しました。
不在のため、失敗。
そして近くの小学校卒業式に乱入して大量殺害しようと計画しました。
下見をしたところ、余りにも父兄の数が多くて犯行を断念。
そして荒川沖駅で犯行に及んだのです。

最近、テレビ局に送られてきた被告の手紙の内容は以下のとおり。
「1秒後のオレを殺せ。殺さなかったらお前たちみんなを殺す。反省はしていないし、する必要もない。
凡人は凡人でしかない。」
生きる目標がない。希望もない。
自殺は痛いから、死刑になりたいから「複数」殺せば死刑になるから犯行に及んだ。

がんばってみよう、努力してみよう、まったくそのケハイはなく、無力感と厭世観があるだけ。
こうした若者のサインに政府も、民間も、教育界も無関心、無策というしかない。
どうしたらいいかオロオロしてるだけだ。
そして、同じ事件が今後も起き続ける。
少ない収入であっても、生きがいを求める道程を我々は示したのか。
自分にできる可能性を考える教育をしたのか。
ただのわがままだけを見過ごしてきたのではないのか。
家族のありかたを考えるカリキュラムのある学校はあるのか。

そして「押し付け教育はだめだ」「暴力教師反対、体罰反対」のシュプレヒコールがこだます。
そして「対抗案」はない。
今の父兄は、何でもハンタイの野党とまったく同じだ。
事件がおきると当局を非難するだけ。
事件の深淵は自分たちに起因するのではないかとの危機意識がない。
振り子はふれる、それが自然の摂理。
「2大政党論」も人間の均衡観、バランス感覚に由来する。
****さんのように自衛隊の軍隊化を述べるのではない。
しかし、今の日本にはあまりにも道徳観が欠如している。
事件の背景と断言する気はないが、教員自身に自殺者が続出していることは根が深い。

批判をする前に、旧体制にも長所があったはずだ。
大家族にも、家長制度にも長所があったはずだ。
先入観ではなく、なにが正しくて、なにが間違っているのか、
検証しなおすべき時がきている。
草食人間の流行も時代の衰退と無縁ではない。
沈み行く日本社会にはリーダーが必要だ。
そのカギは教育現場にある。
私が刑法の「尊属殺規定の復活」を主張する所以も以上の記述に由来する。

<既得権益について、違憲立法審査権>
日本国憲法は法の下の平等を定め、基本理念として「法の遡及効果」を禁ずる。行政の都合で何らかの法規制が行われる場合には、
それまでの相当期間を平穏無事に主たる生計維持機能として模範的、ないし準模範的に市民生活を送ってきた者にたいしての
最大限の配慮、考察が行われるべきである。その生活権、市民権の維持は可能な限りにおいて、日本国憲法の保障の範囲内と解すべきである。
以上の趣旨に反し、行政が国民に耐えがたき不利益を与えた事例については、国家賠償法の適用範囲内と解すべきである。
類例事象としては、世界的に「反捕鯨」機運があるが、和歌山県太地町の伝統的な「イルカ漁」、また北極圏域のエスキモー人種による「クジラ漁」も
太古の昔から平穏無事に行われてきた彼らの主たる生計手段であり、地球規模での一定の理解と配慮が通常の市民感覚には垣間見られる。
以上の論旨により、既得権益者に対する公正な保護機能と別途別段の優遇措置を有しない一律規制の立法は日本国憲法の「法の下の平等」規定に反し無効である。
法の制定経緯が一連の社会的刑事事件の勃発による犯罪防止、予防的側面の強い、市民保護よりは当事者への制裁的かつ訓戒予防的な色彩の濃厚な法条が
顕著である場合等においては、なおさらのこと、実情調査に慎重を期して立法立案作業は提起されて然るべきである。
また、国民主権として職業選択の自由があること、よってその制限は公共の福祉を明白に害する範囲に留めるべきである。
生命保険の保険料、損害保険の保険料、運転免許証の更新、個々人それぞれの実績、態様に応じて、優良優秀な対象者には特段の配慮が設けられている。
これが現代社会における通常の行政等の対応であるのは、あらためてここに検証するまでもない。

<朝日訴訟>
朝日訴訟というのは、国民の生きる最低限の保障を求めた最高裁裁判として、朝日さんという原告の名前が永久的に語り継がれている裁判です。
個人の名前として、いつの日にか何かの事例で「松浦訴訟」などというものが(仮の話です)現実のものとなって、私の名前が半永久的に
国の教科書に載る(ムリでしょうけど、笑)ようなことがあれば、国家試験の常識問題として「松浦」という名前が残るようなことになれば(夢です)、
私はいつ死んでもいい。「我が人生に悔い無し(石原裕次郎の言葉)」と、我が心につぶやいて安らかに息を引き取るでしょう。
坂本竜馬とか西郷隆盛とか、歴史に名を残した人たちの心に「慢心」という2文字はなかったはずです。
絶えず、未達成感、向上心、知識欲、自身の未熟さをいつも意識していたはずです。だから、息を引き取るときは、さぞ無念だっただろうと思う。
2013年5月3日憲法の日の段階で、中央大学法学士、法社会学者としての私の思いを書き残して置きたいと思う。
今、憲法改正論議が現実味を持って語られています。
私の立場は、憲法9条改正には賛成、憲法96条改正には躊躇するというものです。
もし96条改正が俎上に上る事態が現実のものとなるのなら、何らかの付帯事項を付記すべきだろうと思う。
私は「第二項論」と命名し私なりに私の意見を法律論として提起する次第である。
一番危惧すべきなのは、20代やそこらの若い世代がその未熟さを自ら意識しないがままに、「時代遅れの古い憲法だから改正するのが当然だ」との
イージーなコメントをテレビやネットで発言していることだ。幼稚さの故に無理はないのだが、それが何を意味するかを彼らは理解していない。
あたかも、反抗期の小中学生が親に向かって「その考えは古い、時代が違う」などと言ってるのと本質は同じだ。
むろん、彼らが「時代背景」など説明も出来ないし、そもそも理解していないのは自明の理なのである。
彼らの今の生活は、良くも悪くもそれは今の日本国憲法が与えてくれたものである。
では、前の大日本帝国憲法なら、他の国の憲法ならもっといい生活ができていたか、おそらくその答えは「ノー」だろう。
民主憲法の本質を語っておこう。
その一番の根幹は「国家権力の制限」にある。つまり、国家権力の勝手気まま、好き勝手、横暴、暴走を許さない「最後の砦」が日本国憲法なのだ。
戦前の国民生活を恐怖のどん底に叩き込んだ「治安維持法」への反省から、今の日本国憲法が成立したと言っても「過言ではない」。
中央集権としての警察権力を占領軍、GHQは否定した。地方分権としての警察本部制度が確立されたのはGHQの指導によるものである。
その国家権力への「拒否感」が、ごちゃまぜになって「戦前教育の全面否定」となってしまったのだ。
GHQ主導だとか、占領軍が作ったとか、左翼の方たち、右翼の方たち、いろんなことを言うが、そうじゃない。
本来的に「時代背景」として、そのような「要請」が国民心理としてあったという事だ。だから、すんなり国民に憲法は受け入れられた。
GHQが旧態依然とした「憲法改正案」しか示さない日本国首脳を叱責して抜本的な改革案としての「日本国憲法」作成に手を貸してくれたことに感謝すべきなのだ。
その姿は、2013年5月段階で、安倍政権が教育委員会を叱責して「道徳教育」を「正規科目」にしようとしている現状とまったく同じだ。
ぬくぬくと旧態依然の風習にしがみついて無気力に生きている地域社会も同じリクツなのであって、自分の生活最優先の市役所職員を叱責して
「改革」を推進している「橋下大阪市長」「河村名古屋市長」も基本線としてはまったく同じ路線だと言ってもいいと私は考える。
尊敬する石原慎太郎維新の会代表あたりからは「キミ、それは違うよ」とイチャモンがつく可能性無きにしも非ずだが、ここでは持論を述べる。
つい先日も「松浦さん、もしあなたが市長になったらどうするんですか」と、ある若い世代から問い詰められた。
基本的には、橋下さんや河村さんと感覚的には近いから、いくら説得してもわからない場合には私も強権発動はあり得るとお答えした。
市民生活を守ってくれる最後の砦としての、憲法の本質について、もう少しかんたんなお話もしておこう。
ご存知の、道路交通法は通常は「60キロか、50キロ制限となっている」、一般国道での話しだ。
行政としては、酔っ払い運転やら、スピード違反やら、対応に苦慮していて多忙だ。
誰だって仕事は楽なほうがいい。悪質なドライバーや高齢者には運転してほしくないのが本心だ。
そして、取り締まることが「日本のためになる」という自己暗示の強迫観念は絶えず公務員側にはある。
だから、市民の実情なんかどうでもいいわけだし、考えもしない。私の提唱する公務員改革は「人物査定、面接採用」重視を説く。
ともかく、「無事故社会」は確かに「日本のためになる」それはその通り。確かに事実ではある。
あくまで「仮定」での話しだが、「一律50キロ制限」とする、「一律60歳になったら国民すべてから運転免許証を取り上げる」となったらどうなのか。
公務員は楽で楽で仕方がない。行儀のいい、おとなしい道路交通事情が実現するからだ。
では、経済はどうなるか、私生活はどうなるか。
運送会社は倒産して失業者だらけになる。各家庭では出かけられない老人が孤立する。社会は大混乱。
だから「行政訴訟制度」があり、「日本国憲法」があって、国家権力の好き勝手、勝手気ままを許さないのだ。
これを「古い制度」などと言う狂った若者は少ないはずだ。無知は、個人生活を破壊する。
では、「治安維持法」が復活したらどうなのか。理由なんかどうにでも「勝手気ままに」付けられる。
今述べたような、むちゃくちゃな法律、条文は「作成可能」となるわけだ。
論語教育をずーっと、私は道徳の根幹として主張している。いいものはいい。どこの国のものとかは関係ない。英語教育も同じことだ。
しかも、二千年、三千年、人類が「世界の叡智」として認めてきた思想であり、良識だ。古いなどとは誰も言わない。温故知新。
本当にいい「憲法」なら、我々はこれからも時代に即した修正を加えながら、何百年も何千年も大切にして死守していかなければならない。
「基本的人権」、それは全体主義国家には悲しいことに存在しない。
それは「国家権力の勝手気まま、行政の都合」が「国家全体のため」という理論で最優先される社会だからだ。
仮に治安維持法が復活しても、それなりに息を潜めて我々は生きていくだろう。
北朝鮮、東ドイツ、その姿が「教訓」だ。
今、「自由に感謝する」「家庭に、親に感謝する」そんな感覚は日本人には希薄だ。権利と自由のはき違い。
「東日本大震災」は、そのことへの「教訓」だ。人間は忘れる動物なのだ。
少子高齢化でやがて多くの外国人が日本社会に入ってくる。
我々、日本民族の倫理観、アイデンティティーはしっかり継承していかないと、やがては国家自体の存亡にかかわってくることになるわけだ。

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